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2012/09/21

寝物語の里

nemonogatari_02.jpg滋賀県と岐阜県の境には「寝物語」と呼ばれる里がある。司馬遼太郎の「街道をゆく」というシリーズに登場したのを以前読んで一度訪れたいと思っていた。 そのお伽話にでも出てきそうな名前の里へ行ってみようと、湖北から帰る途中に寄り道をすることに決めた。場所は中山道の柏原宿。滋賀県の長浜方面から国道365号線を関ヶ原方面に走り、伊吹山南麓の「高番」交差点を南東に5km。のどかな田園風景の中を走ると柏原の宿場町へと到着する。中山道は江戸時代の五街道のひとつで主要道路の第一として東海道があり、その裏街道として中山道がある。中山道は京と江戸を結んだもので、木曽を通り江戸に入ることから木曽路とも呼ばれた全行程約540kmの街道。 続きはこちら>

2012/08/26

京都 六地蔵めぐり

大善寺20120823-4.jpg京都に残る伝統行事の一つに、毎年8月22日と23日にめぐる「六地蔵めぐり」がある。京都市内にある旧街道口六ケ所に安置された地蔵を安置する寺院をまわり各寺ごとに定められた色の「御旗」を束ねて玄関先に吊るすと、家内安全、無病息災、家運繁栄といったご利益が得られるという800年以上続く京都の伝統行事である。平安時代初期の歌人であり、また役人でもあった小野篁(おののたかむら)が、大病を患い仮死状態となって、地獄の世界へと行った時に、地獄に落とされて苦しめられている罪人たちを救う一人の地蔵菩薩に出会った。そしてその後蘇った小野篁は一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み今の大善寺あたりに伽藍を建立した。その後、後白河法皇の命により保元二年(1156年)に六体のうち、最初に刻まれた一体を伏見街道の入り口に当たる大善寺に残し、残りの五体を他の都街道の入口に六角堂を建てて分置した。これが現代まで広く庶民に親しまれている六地蔵めぐりの起源である。 続きはこちら>

2012/08/02

びわ湖百八霊場とご開帳情報

toukouji.jpg滋賀県にはそれぞれが別々に存在していた湖北二十七名刹、湖東二十七名刹、湖南二十七名刹、湖西二十七名刹の四つの霊場が 合わさりびわ湖百八霊場としてびわ湖を数珠つなぎに結んでいる。湖西一番札所の西国三十三ヶ所でも有名な石山寺をびわ御百八霊場第一番札所として、百八番目には比叡山延暦寺横川中堂で満願となる。 平成21年に出来たばかりの霊場めぐりなので歴史は浅く感じるが、文化財の宝庫である滋賀県内の寺院を回るというだけあり札所には優れた仏像を安置したお寺や、綺麗に手入れされた禅宗のお寺などバリエーションは豊富でライフワークとして楽しめる。その中でも湖南二十七名刹の中で、今後のご開帳がいくつか分かっているので忘れないようにここに残しておく。 続きはこちら>

2012/07/07

七寺、栄国寺 名古屋市中心部の仏像をもとめて【愛知】

七寺20120705-5.jpg私も参加している名古屋仏像研究会での集まりの席に中部経済新聞社の記者さんがいらしたのがご縁で、 名古屋市内の2ヶ所の寺院の取材を案内させていただいた。テーマは「トレンド」ということで、若い人に人気の「仏像」にスポットを当てた取材となったわけですが、 名古屋市内は平安時代あたりの古いものが空襲でほとんど焼かれてしまっている土地なので、なかなか地元のお寺に仏像を拝しに行くという機会は少ない。そのような背景の中でも、仏像が残り守り続けていらっしゃる七寺と栄国寺を案内することにした。まず最初に向かった先は七寺。大須観音からアーケードの仁王門通りを大須通に向かって歩くと5分ほどで着くのだが、ほとんど知られていない。真言宗の歴史ある古寺で、奈良時代の天平七年(735)、僧行基によって開創されたと伝えられている。 続きはこちら>

2012/06/08

羽賀寺 御食国若狭を代表する十一面観音像【福井】

羽賀寺_20120509_04.jpg日本海に面した福井県若狭地方は「奈良の入り口」と呼ばれるほど都との関係が深く、大陸から近く、海の玄関口として栄える巨大な貿易港であった。若狭は、「御食国若狭(みけつくにわかさ)」とも呼ばれ、志摩や淡路などとともにウニやアワビ、鯛、イワシ、貽貝などを国へ納める「御食国」すなわち天皇の食料を貢ぐ国として朝廷にとって欠かせない土地であり、魚介類だけではなく海から採れる「塩」を通じて奈良や京都と交流があり、その影響で朝廷からの差配を受けていた。 そんな若狭の仏像を代表する観音像として有名なのが、今回訪れた羽賀寺の十一面観音。若狭の中心地でもある小浜市にあり、天ケ城山の麓、40軒ほどしかない羽賀という小さな集落にその寺はある。寺伝によると、霊亀二年(716年)鳳凰が飛来して羽毛を残すという吉祥に喜んだ元正天皇が行基に命じて創建した。朝廷の勅願寺として盛時には寺坊十八坊を数える大寺であったという。
度重なる火災や兵火により寺坊は消失してしまい、今では文安四年(1447年)に再建された本堂だけが緑深い山麓に残されている。
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2012/05/20

大吉寺 秘仏浮木観音を祀る湖北の大寺【滋賀】

大吉寺_20120516_5.jpg小谷山の東にある天吉寺山の中腹に建つ天台宗の古刹大吉寺。縁起によると天智天皇の御代(661~671年)に近江国愛知川に観音様に似た浮木があり、 愛知川から流され琵琶湖へ入った。その後、桓武天皇の御代(781~806年)になって天皇がその話を聞き、 一寺を建てて天吉寺とした。しかし大同二年(807年)九月に大洪水が起こり堂宇は流失し、像は琵琶湖の北、高島に流れ着き、 その地の豪族浅井治家の妻の出生地である、浅井郡草野荘の地に貞観七年(865年)に比叡山の僧安然上人の協力を得て 建立したのが大吉寺のはじまりであったと伝える。その後は、「吾妻鏡」「平治物語」に、平治の乱で敗れた源頼朝が東国に逃げる際に、この地の草野定康によって 大吉寺の天井裏にかくまわれたと記されており、頼朝の庇護を受け広大な寺領と仏教文化圏を築いた。 続きはこちら>

2012/05/13

美江寺 岐阜県内最古の秘仏十一面観音像【岐阜】

美江寺 (5).JPG岐阜県には、滋賀や京都、奈良に比べて名の知れた古寺は少なく、関西や関東からわざわざお参りに来る人は少ない。 古寺がないわけではなく、実際に奈良時代や平安初期が創建とされる寺院は多いのだが、寺院の参拝を観光に強く結びつけていなため、こういったお寺への興味が強い人以外にはほとんど知られていない。 車や鉄道の文化となった現代では、ただの通過点となってしまっているが、岐阜県、すなわち美濃地方は、東西の都につながる多くの街道を持ち、現在も主要な交通路として使われている。
昔はこの街道が文化を運ぶ交通路として存在しており、その街道が集まる岐阜の美濃地方は畿内や北陸、関東の文化や信仰が入り混る"るつぼ"のような場所であった。今回訪れた美江寺はそんな美濃地方の中心、岐阜市にある。美江寺は、戦国時代に「美濃のマムシ」と恐れられ、天下の梟雄として知られる斎藤道三の居城、稲葉山城(現在の岐阜城)の西に位置し現在は市役所や裁判所が集まる岐阜市街にある天台宗の古刹である。 続きはこちら>

2012/03/25

飯道寺 近江修験の霊山に伝わる三躰の仏像【滋賀】

飯道寺 (16).JPG甲賀市水口町の南西には近江修験の霊山として信仰を集めた標高664mの飯道山がそびえている。 その麓の水口町三大寺に三躰の仏像を祀っている小さな寺院が、今回訪れた飯道寺である。 この集落の地名である「三大寺」というのは、この地にむかし飯道山山頂の飯道寺と、中腹の道徳寺、 山麓の薬王院という三大巨刹が村に存在していたことからこう呼ばれるようになった。その後、飯道神社の神宮寺として共にあった飯道寺も含め、明治の神仏分離で三大寺全てが 廃絶となり現在は山頂に飯道神社を残すのみとなっているが、明治25年に伝統を継承するために本覚院と 呼ばれ残されていた飯道山里坊の一つであるこの地を飯道寺と改称し現在に至っている。 続きはこちら>

2012/03/22

永昌寺 根本中堂と結びつく地蔵菩薩立像【滋賀】

永昌寺 (11).JPG甲賀市の永昌寺は寺伝によると綾野天満宮の別当寺で、その後享保年間(1716~1735)に南の飯道山智積院の僧霊澄の代に比叡山の末寺となったと伝えられている。野洲川と杣川に挟まれた土地で昔は宇治川原村と呼ばれていた。
水口町宇川の集落に永昌寺はある。
車だと甲賀土山インターが最寄りとなるので土山町を過ぎてから水口町に入り野洲川を越えたら宇川の集落へと着く。車だと30分もかからない。土山は茶所で、インターを降り国道1号線を西に進むと多くの茶畑に囲まれる。この茶畑がなくなると水口町に変わる。お茶というのは霧が大事なようで土山は霧が多くお茶に適しているのだという。一方、その隣の水口は霧が少ないため茶畑は殆ど見られない。 続きはこちら>

2012/03/11

普賢寺 神を護る普賢菩薩像【三重】

hugenji_05.jpg高さはないが伊勢の神宮へと連なる山々に囲まれた土地が多気町には広がる。 その村の一つに「佐奈」という地名がありここは、「古事記神代巻」の天孫降臨の条に 「手力男神(たぢじからお)は佐那の県に座(いま)せり」と記載された神の土地である。 古事記に手力男神や、品遅部君(はんじべきのきみ)といった有力な豪族が坐せりと 記されており、この地が早くから開け高度の文明を持っていたことを明らかにしている。 また、この近辺に丹生地区がありその名が示すとおり17世紀まで水銀の産出地として 経済的にも豊かであったという。 今回訪れた普賢寺は神坂(こうざか)という地域で佐奈の隣にある。熊野街道から北に入った神坂は、山上の神と里宮とを結ぶ聖なる道であるから、神坂と名付けられたのだろう。伊勢神宮に近い地域で、このような神にまつわる地名を聞くと、そこにはしっかりも守り伝えられてきた歴史と共に由来は古事記や日本書紀にまでさかのぼる。 続きはこちら>

2012/02/26

近長谷寺 高さ6.6メートルの長谷寺式十一面観音像【三重】

kintyoukokuji_08.jpg三重県多気郡、城山の山中に長谷寺式の十一面観音を祀った近長谷寺がある。訪れた2月18日は初観音の日であり、先に玉城町の田宮寺を訪れたあと、
西に見える城山に向かって車を走らせた。近長谷寺へは麓の長谷地区から山道を車で登り、さらに駐車場から200mほど登ったところにある。道は舗装されているものの、雨の日や雪の日は傾斜が急なので足元に注意してほしい。この日は昼前には止んだが午前中に降った雪で、凍った坂を登るのには苦労した。近長谷寺は仁和元年(885年)に伊勢の国の豪族飯高氏が内外の近親などに勧進して建立され、もとは尾根の下の谷筋にあったものが、洪水や山崩れなどにより元禄年間に今の場所に移った。これらのことは寺宝として伝わる平安時代の「近長谷寺資材帳」に詳記されている。これは平安時代における南伊勢の土地の様子を知るうえでの手がかりとなる唯一の資料である。ちなみに近長谷寺の「近」とは伊勢の皇大神宮(通称:内宮)に近いということで近の一字を加えて「近長谷寺」としたようである。 続きはこちら>

2012/02/23

田宮寺 伊勢を守る二躰の十一面観音【三重】

田宮寺20120218_08.jpg田宮寺は三重の松阪から伊勢へと向かう参宮線のほぼ中間に位置する。車なら東名阪から伊勢自動車道に乗り玉城インターを降りて10分の距離である。田宮寺は標高の低い山々に囲まれた静かな土地にひっそりと佇み、二躰の十一面観音をお祀りしている。伊勢神宮へはここから15キロと近く、内宮長官であった荒木田氏の氏寺となっていた。その後。織田信長の伊勢進攻により兵火にかかり隆盛を誇っていた本堂や客電などは焼失してしまい、さらには廃仏毀釈により往時を偲ぶ面影は今はなく、現在では小さなお堂をふたつ残すのみである。本堂に安置されている十一面観音は秘仏で2月18日と8月9日のみ一般に開扉される。本堂の内陣奥に同じ背丈の十一面観音が安置されている。正面向かって左の十一面観音は足元にわずかに彩色が残りふっくらとした顔つきの古様な作風で平安時代初期の作。 続きはこちら>

2012/02/15

浄名寺 270cmの量感豊かな円空仏【愛知】

jyoumyouji_04.jpg愛知県の南西に位置する西尾市。市の中心部から5キロほど離れた浄名寺に高さ270cmの巨大な円空仏が安置されている。円空上人は江戸時代の遊行僧で、寛永九年(1632年)今の岐阜県に生まれ、元禄八年(1695年)64歳で亡くなるまでに全国を巡錫して12万躰もの仏像を彫ったと伝えられている。12万躰もの仏像をどのようにして彫ったかというのは謎が多すぎてわかってはいないが、岐阜県郡上市の神明神社に安置された神像三躰が現在までに発見された最初期の仏像であり、このとき円空は32歳。20代の頃から彫っていたと考えても40年ほどで12万躰というのは途方も無い数字である。しかし、円空の仏像には比較的大きな観音像を彫った際に出る木の端で
目鼻を付けただけの小さな仏像も彫っているのでこの数字も納得ができる。愛知県の龍泉寺は千体仏として所蔵されているが、こうした仏像も12万躰に貢献しているのは間違いない。 続きはこちら>

2012/01/15

奥明日香栢森の綱掛神事【奈良】

kayanomori_11.jpg石舞台古墳から吉野へと通じる谷間の地域を奥明日香と呼ぶ。その道の脇には万葉集に幾度も詠われた飛鳥川が流れていて、今でも綺麗な里川の風景を残している。飛鳥川沿いの道はかつて吉野の離宮に行幸した帝が通ったとされる道でもあり、山に囲まれた里川の風景は、古代への想像を掻き立てる要素を充分に持っている。源流は芋ヶ峠と入谷にあるようで栢森、稲渕集落を北に流れ飛鳥の様々な遺跡を縫うようにして橿原市へと流れる。その飛鳥川上流にある栢森集落を以前訪れた際、集落にある龍福寺の岡村住職に兼務されている入谷の地蔵寺を案内していただいた。その日は8月の暑い日中で、入谷の地蔵寺から栢森の龍福寺へと場所を移し色々と話を聞かせていただいた。すると、栢森集落の入り口に掛けられた女綱(雌綱/めづな)という勧請縄の綱掛神事をこの住職がされているということがわかった。勧請縄とは五穀豊穣、子孫繁栄を祈り、さらに飛鳥川をつたい疫病が入りこまないようにするために古来より年に一度掛け替えられてきたものである。 続きはこちら>

2012/01/09

赤後寺 村の人々が守り続けた二躰の観音像【滋賀】

赤後寺20120101-7.jpg平成二十四年正月、湖北の観音様にお会いしたくて、車を走らせた。ふと思い立ち湖北へ向かったので事前の拝観予約は何処へもしておらず、予約の必要のない渡岸寺観音堂へと向かった。 三日前に降った雪が境内にまだ残っていたが、去年に比べれば積雪は少なく移動しやすい。渡岸寺観音堂の十一面観音は貞観時代の優れた檀像で、この像については多くの人がご存知であろうから省略する。渡岸寺で国宝十一面観音を拝したあとは、まだ時間もあったので唐川の赤後寺へと行くことにした。ここは拝観予約が必要な寺院ではあるが、同じ高月町にある西野薬師堂と同じで当日でも電話をすれば参拝ができる。だが、この日は正月ということもあり、世話方さんが当番だからといっても電話をしてわざわざ来て頂くというのは気が引けたので、行ってみて運良く世話方さんが境内にいれば観音様を拝見させていただこうと半ば諦めて渡岸寺観音堂を出発した。 続きはこちら>

2011/12/11

田中神社 戦火を逃れた二躰の観音像【滋賀】

tanaka_05.jpg琵琶湖の北に湖北町という小さな町がある。観音の里として有名な高月町の南に位置し、浅井氏の居城小谷城を東の端にもつ。その町に「田中」という水に恵まれた小さな集落がある。琵琶湖は直ぐそこで、水に恵まれており30mも掘れば水脈に当たるらしい。この対岸には川端で有名な高島市針江地区があり、田中も昔は各家が川端を持ち暮らしていたという。その名残であろう、集落内には家屋の周りには水路が作られ綺麗な生水が流れていた。集落にある田中神社の境内には、戦乱と天災から逃れた十一面観音像と聖観音像が祀られている。今回は同じ田中の集落にある光照寺の藤居義正住職に立ち会っていただき拝見する機会を頂いた。田中神社の北側には325mの小高い山本山があり、まるでお碗を伏せたような形をしている。この山にはその昔、平安末期に築城された城があり城主である山本判官義経が平家と戦ったという。この田中神社は、現在の位置より約300m真西の西田中神社が平家との戦いの際に焼失し後に移されたもので、今回拝見した二躰の観音像も西田中神社に祀られていたと伝えられている。 続きはこちら>

2011/11/20

盛安寺 ふくよかな四臂の十一面観音像【滋賀】

盛安寺20111109-5.jpg西国三十三観音巡礼の札所でもある滋賀県大津市の園城寺(通称三井寺)から京阪電鉄の石山坂本線沿いに北に行くと穴太という静かな町がある。
延暦寺のある比叡山東の山麓で、丘陵地となっている。東を望めば琵琶湖が眼下に広がりその琵琶湖の向こうには三上山がそびえる。この地には穴太衆という石工の集団が拠点としており、割り石を使わず天然の石だけを巧みに積み上げる穴太積みという技法を持つ。彼らは安土、江戸、名古屋、彦根などといった数々の名城の石垣を手がけた日本有数の特殊技能者であり、彼らが拠点とした穴太の地に建つ盛安寺の石垣はまるで城郭のように見事に組まれている。創建について確かなことは判らないそうだが室町時代の天文年間(1532~1555年)に、越前朝倉氏の家臣杉若盛安によって再興され、自分の名を付け盛安寺としたと伝えられている。 盛安寺の本堂は市の文化財に指定された桟瓦葺の建物で、今回は拝見する機会がなかったがこの奥にある客殿は17世紀前半に建てられ、重要文化財にも指定された立派な建造物である。庭園も見事で特別拝観のシーズンには観光客で賑わうのだとか。 続きはこちら>

2011/11/13

金勝寺 山里に立つ360.5cmの巨大な軍荼利明王像【滋賀】

konsyouji_10.jpg琵琶湖の湖南から甲賀の辺りは鬱蒼とした森に囲まれた地域が多い。そして、見上げれば岩山が空をさすようにせり上がっていて、どの山も神体山としての畏れを感じる。今回訪れた金勝寺はその中でも最も山深い所にある天台宗の古刹で、東の竜王山(605m)、西の阿星山(693m)に囲まれている。金勝寺のある山を金勝山というが、これは金勝山という山があるのではなく金勝寺のある東の竜王山や鶏冠山などの山系を指す名称なのだという。この日は南にあるMIHO MUSEUMで開催されていた「神仏います近江」展を観覧した後に、車を30分ほど走らせて金勝寺の参道入口に着いた。参道からは車で寺務所まで登ることができる。山へと登る登山道のためコンクリートで舗装され走りやすいものの、何度も何度もカーブを曲がること20分。ようやく山上の駐車場に到着した。寺伝によると金勝寺は、天平五年(733年)聖武天皇の勅願により、奈良の都を守る国家鎮護の祈願寺として、東大寺の初代別当の良弁僧正が開基し、八世紀の中頃までに近江の二十五別院を総括する金勝山大菩提寺として法相宗興福寺の仏教道場であった。 続きはこちら>

2011/11/06

千光寺 小高い丘に立つ美しき千手観音【滋賀】

千光寺20111026-9.jpg櫟野寺の拝観を終え、向かった先は同じ甲賀市内の千光寺。寺伝によると、天平二十一年(749年)、行基の開基で、左大臣橘諸兄が造営と伝えられている。その後、兵火にあい、現在の地に移ったのは正保二年(1645年)の事。災難は続き安政二年(1855年)には火災により堂宇や古文書は失われ、現在の本堂は明治十一年に建てられた。今では往時の姿を見る術はないが、千光寺は甲賀六大寺の一つで西住院を始め十の坊があったと伝えられている。野洲川が東に流れのんびりとした農村地帯の小高い山の麓にあり、10月も終わろうとするこの日は冷たい風が辺りに吹いていた。八坂神社と隣同士に建つのが千光寺で、古来からこの寺が八坂神社の別当を兼ね、八坂神社の祭礼の時には、神輿が必ずこの寺を通ることになっていた。あとからこの八坂神社にも寄ってみたのだが御神体として山を背に建つ社殿は重要文化財にも指定されており、屋根が前に曲線形に長く伸びて向拝となった一間社流造、檜皮葺の立派な社殿だった。車を八坂神社の神池に停め千光寺の参道を進むと、すでに総代さんが待っていて下さり、お堂と収蔵庫の扉を開けていてくださった。 続きはこちら>

2011/10/26

櫟野寺 滋賀有数の平安仏の宝庫【滋賀】

rakuyaji_08.jpgいちいの観音様として有名な滋賀県甲賀市の櫟野寺。今では新名神高速が通り、京都方面からも愛知方面からも参拝しやすくなった。「いちいの観音さん」は天台宗の総本山延暦寺の末寺で、地域の人々から信仰を集めている日本最大の十一面観音坐像を安置し、他にも二十数体の仏像が安置された滋賀県でも数少ない平安仏の宝庫でもある。櫟野寺(らくやじ)は櫟野(いちいの)という集落に建っており、本堂はコンクリート造、延暦十一年(792年)に最澄により創建されたが、境内は織田信長の焼き討ち、明治には櫟野集落の大火事、昭和の本堂消失と災難が続き、現在の境内は明るく広々としており古刹といった趣は残念ながら感じられない。櫟野寺建立縁起に、延暦二十一年(802年)坂上田村麻呂がここの観音様に鈴鹿の山賊討伐を祈願し勝利したという話が載っている。これは、甲賀の地に土族として甲賀武士が存在していたということの裏付けにもなり、それが今では観光資源の一つでもある甲賀忍者の源流なのであろう。山賊討伐に成功した坂上田村麻呂は大同元年(806年)に櫟野寺に七堂伽藍を建立した。 続きはこちら>

2011/10/12

西野薬師堂 威風堂々とした二躰の如来像【滋賀】

西野薬師堂 (1).JPG湖北高月町は琵琶湖に面した湖側と山側とでその表情は異なる。湖側の西の地区は三方を山に囲まれ、一方を余呉川に囲まれた集落で、その昔は大雨になると余呉川の水が氾濫し集落一帯が冠水してしまうという被害を度々受けた。そこで江戸時代に民衆の私財を投じて作ったのが西側の岩山を掘り琵琶湖へと水を送る放水路「西野水道」だ。あとで調べるとこの水路は200~300メートルほどの距離で琵琶湖にぶつかり、その水路を抜けて琵琶湖側に出れば、現在3代目として使われている新たなコンクリート造の水道も見ることが出来るそうだ。しかしこの水道、ノミだけで掘ったというから苦労が偲ばれる。総経費は1275両、現在の価格にして5億円ほどの費用を村人で捻出し5年の歳月をかけて完成したものだという。氾濫するたびに集落は飢饉に悩まされており、人々にとっては必ず成し遂げなければならない工事だったのだろう。現在もその放水路を通り琵琶湖側へ出ることができるが、一人で立ち入るにはなかなか度胸のいる外観で、まるでコウモリでも出そうなくらいに不気味な雰囲気を漂わせている。とてもこのような中に一人で入る勇気はなく、私は入口の前で写真を撮り、そそくさと来た道を引き返して目的地の薬師堂に向かった。 続きはこちら>

2011/10/09

円満寺 守り続ける己高山仏教文化圏【滋賀】

円満寺 (3).JPGこの日は朝9時から尾山釈迦堂→理覚院→大円寺(高月観音堂)と周り昼食後は円満寺へと向かった。湖北高月町の井口地区にある円満寺は、理覚院から歩いて5分とかからない距離。理覚院の斜め向かいに富永小学校があるのだが、円満寺はその小学校の北東角。今回は世話方さんの都合がつかず高月駅に近い大円寺を間に挟みまた井口へ戻るという参拝となったが、予約される際は理覚院と円満寺に参拝する旨を伝えれば世話方さんも都合をつけてくださるはずである。己高山円満寺は応永十四年(1407)の「己高山縁起」に「惣山之七箇寺(そうざんのしちかじ)」の一つとして記載されている湖北の古刹で、現在は日吉神社境内の脇にそっと佇む阿弥陀堂を残すのみとなっている。この寺の歴史については寺伝が乏しく、詳しい資料は残っていない。ただ、山号からも分かる通り己高山仏教を支える極めて重要な寺院の一つであることには間違い無いだろう。往時は末寺六坊を従え、平安・鎌倉時代には大いに栄えたという円満寺も、度重なる戦乱や政変により衰退し戦国時代には多くの寺宝は消失した。 続きはこちら>

2011/10/06

大円寺(高月観音堂) 駅から徒歩5分の美麗な千手観音【滋賀】

高月観音堂20110929-7.jpg湖北の高月町には国宝に指定された渡岸寺観音堂の十一面観音に代表されるように観音の里の中心地であり往古より神聖な場所と崇められていた。この地の人から高月観音と崇められている観音様は、曹洞宗の名刹、大円寺の観音堂に安置されている木造の千手観音像をいう。ガイドマップなどを調べるなら高月観音堂と言った方が分かりやすいかもしれない。ここへは高月駅から徒歩3分、渡岸寺観音堂から徒歩10分という立地にありバスや徒歩での移動ならばぜひコースに入れてほしい。 延暦六年(787)、伝教大師最澄はこの地に滞在して千手観音像を彫刻し、七堂伽藍を建立し寺勢は大きく隆盛した。その後、戦国時代に入るとこの湖北地方は交通の要所であるために主戦場となり、度重なる兵火のため老廃し、天正十一年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦の際には、伽藍のことごとくは焼失してしまった。しかし不思議なことに大円寺の観音堂にあった観音像は、自ら火難を逃れて、東方に半町余歩離れた石の上に立ち、美しく光り輝いていたという。 続きはこちら>

2011/10/02

理覚院 水に恵まれた井口弾正の菩提寺【滋賀】

rikakuin_05.jpg湖北の高月町の北東に井口(いのぐち)という地域があり、ここに浅井家の重臣・井口弾正経元の菩提寺である理覚院はある。井口家は東を流れる高時川の水利を治めた土豪で、井口弾正経元は浅井三姉妹の曾祖父にあたる。理覚院に着くとすでに扉は開いており、3人の女性が待っていてくださった。噂で聞いた話だが、この理覚院に参拝予約をするとこうして数人の世話方さんが迎えてくれるらしい。「遠い所ようこそ」とあたたかく迎えていただいた。 この地にはその昔、長安寺と称する巨刹があり、この辺り一帯の己高山仏教を支える一寺院として平安・鎌倉時代には隆盛を極めた。その後、この地方のほとんどの寺院が見舞われた戦乱、政変を経て衰退していき、今ではわずかに残った一坊がこの理覚院であると伝えている。 観音堂の隣には井口弾正の墓がある。もともとこの奥の樹々に埋もれていたものを最近になってこの場所へ移された。理覚院は現在は庫裏を兼ねたような古民家の本堂と観音堂を残している。観音堂には江戸時代の西国・坂東・秩父各札所の「うつし霊場」としての百体観音像が安置されており、中央には本尊である聖観音像を安置している。 続きはこちら>

2011/10/01

尾山釈迦堂 村で守り続けた丈六仏【滋賀】

oyama_07.jpg尾山釈迦堂は、高月町の北東の集落である雨森や井口よりさらに北、己高山の麓にある石道寺からは、西へ下り高時川を渡った尾山という集落にある。 樹々が生い茂った森の中にひっそりと佇むこの釈迦堂には、戦火を逃れた仏像が安置されており、どちらも後に修復されたと思われる半丈六の釈迦如来坐像(重文)と智挙印を結んだ金剛界の大日如来坐像が安置されている。 寺伝は乏しく縁起などはよく分からないが、この釈迦堂の左手の平地は棚田状になっており、周辺の小字名には「堂谷」や「堂の口」「蓮蔵坊」「三月殿」などとあることから古くは相当大きな寺院であったろうと思われる。今回の拝観に立ち会っていただいた世話方さんはその昔あった「尾山安楽寺」という寺院がこの釈迦堂の前身であろうと話してくださった。 尾山安楽寺という名は己高山縁起にも出てきており、この丈六仏二躰やその他に安置している欠損仏の存在を考えるとこの地で間違い無いだろう。 続きはこちら>

2011/09/22

向原寺 盗難から36年ぶりのお帰り。飛鳥時代の金銅仏【奈良】

向源寺20110922-5.jpg各地に猛威を奮った台風15号が過ぎ去った翌日の9月22日。
台風一過の晴天とは行かなかったが明日香は時折小雨が降ったりやんだりとすっきりしない天気が続いた。今回向かった先は明日香村の向原寺。日本最初の寺と言われている所。ここは調べれば調べるほど面白く、まさに明日香村は遺跡の中の村であるということがよく分かる。
ここを訪れたのには目的があった。それは2010年に36年ぶりに盗難から戻ってきたという飛鳥時代の金銅像を拝見するためでもある。 日本書紀によれば日本に初めて仏像や経論が伝えられたのは、欽明天皇十三年(552年)のことで(538年という説もある)、百済の聖明王から伝えられたのがはじまりである。
欽明天皇は献上された仏像の礼拝の可否を群臣たちに求めたところ、仏教派の蘇我稲目(蘇我馬子の父)はその仏像を安置させるために自分の邸宅を寺として立て直したという。それがここ向源寺の場所であり、向原寺の前進である豊浦寺である。つまり仏教が伝来した最初の地がこの場所なのだ。 続きはこちら>

2011/09/18

奥明日香の綱掛神事 女綱と男綱【奈良】

meduna_03.jpg六世紀末から七世紀末までの約一世紀の間を飛鳥時代と呼ぶ。現在の奈良県高市群明日香村がその場所で、推古天皇をはじめ天智天皇、天武天皇がここに宮を置き、日本の中心として栄えた場所である。明日香は今では穏やかな田園風景と遺跡が残り、岡寺や飛鳥寺、高松塚古墳など多くの名所が残っている。文化史で言えば飛鳥文化、白凰文化が華開いた時代がそれだ。
今回はそんな明日香でも「奥明日香」を目指してみた。男綱(おづな)と女綱(めづな)という勧請縄が掛けられた二つの集落に向かう。奥明日香は石舞台古墳を南に行った稲森や栢森、入谷といった集落を指す。 続きはこちら>

2011/09/17

数珠巡礼 - 数珠の完成を目指して -

jyuzu_01.jpg巡礼といえば、決められた札所を巡り、納経の記しである朱印を頂くという西国三十三観音などが有名であるが千年以上前から続く巡拝とはいえ時間や困難が伴い誰もが簡単に始めることが出来るものではない。そのような事から巡礼と聞くとハードルが高く聞こえてしまい、なかなか始められる方が少ないのが現実です。今は仏像ブームとは言えども、巡礼までやってみようと行動に移す人はその中のほんの一部の人達でしょう。そこで2008年に発足した数珠巡礼は、今までの巡礼とは大きく異なり誰もが気軽に始められる仕組みをとっています。寺院は滋賀県と京都府の寺院に限られているが、寺院の名が刻まれたご祈祷・ご祈願された数珠玉を一つ一つ集めるというもので、観音巡礼などよりもハードルは低く誰でも簡単に始めることが出来るのが特徴。また、一般的な巡礼と違い寺院が加盟するとさげわたしの数珠玉の引渡しが始まるため、この3年間で加盟する寺院がどんどん増えているので終わりがない。 続きはこちら>

2011/09/08

寿宝寺 明かりに照らされた千手観音【京都】

寿宝寺.jpg京都南部の宇治市から車で南に30分ほど走ると京田辺市の寿宝寺に着く。更にここから車で30分走れば奈良の東大寺となる。以前から書籍などでしかその姿を拝むことの出来なかった千手観音立像が、この寿宝寺に安置されている。今回は事前に拝観のお願いを申し入れ念願叶い拝見できることとなった。
寺伝によると文武天皇の慶雲元年(704年)創建と伝えられている。この地は東大寺方面から登れば奈良街道の最初の宿場町、京都伏見から下れば東大寺へ向かう最後の宿場町として栄え、古くは七堂伽藍を備えてる大寺であった。今では往時を偲ぶものは残っていない。ここの東を流れる木津川の度重なる氾濫により移転を繰り返し、この地に移ったのは享保十七年(1732年)のこと。明治初めの廃仏毀釈に際して近隣の寺々を合併し、現在の本尊である千手観音(国の重要文化財)や降三世明王、金剛夜叉明王が観音堂に安置されている。本堂の横に庫裏があり、寺庭さんに案内をしてもらった。観音堂に入ると塗香を手に取り身を清め、お経を上げていただいた。 続きはこちら>

2011/09/02

安倍文殊院 綺麗になった文殊館!平成23年卯年特別結縁拝観【奈良】

安倍文殊院.jpg快慶作の高さ7mという日本最大の文殊菩薩で有名な安倍文殊院の歴史は古く、寺伝では大化元年(645年)に阿部一族の本拠地であったこの寺院のある「阿部」の地に、当時の左大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として「阿部寺」をここから南西300mほど離れた地に建立したのが始まりである。
その後平安時代に建てられた別所が現在の安倍文殊院で、陰陽師として今でも有名な安倍晴明の没後、彼が「文殊菩薩の化身」であるという民間信仰が広まったことから慶派の仏師快慶により文殊菩薩群像が作られた。
今年は平成23年3月に本堂の大改築が完成したのを祈念して特別結縁拝観が行われており、本堂内陣奥まで行き拝見することができる。本堂にはまるで神社のように思えてしまう合格祈願の絵馬などが掛けられており、少し独特な空気が流れている。お堂の荘厳さが損なわれてしまっているのはいささか残念である。本堂で受付を済ませ、お抹茶をいただき早速、本尊が安置されている文殊館へと向かった。
三人寄れば文殊の知恵と言われるように、知恵を司るのが文殊菩薩で、乗るのは百獣の王である獅子。百獣の王をも制するということを表しています。 続きはこちら>

おすすめ拝観ルート

愛知県

名古屋市中区
栄国寺 七寺
名古屋市北区
成願寺
西尾市
海蔵寺 金蓮寺
浄名寺 専長寺
小牧市
賢林寺
津島市
千体地蔵堂

岐阜県

岐阜市
岐阜大仏(正法寺) 慈恩寺
美江寺
本巣市
淡墨観音(淡墨桜)
加茂郡富加町
清水寺
揖斐郡揖斐川町
釣月院
養老郡養老町
養老寺
白川町
和泉薬師堂 大寺庚申堂・八剣神社

三重県

四日市市
観音寺(四日市市垂坂)
鈴鹿市
林光寺
三重郡菰野町
五百羅漢(竹成大日堂五百羅漢) 明福寺
多気郡多気町
近長谷寺 普賢寺
度会郡玉城町
田宮寺

福井県

小浜市
国分寺 多田寺
羽賀寺
大飯郡高浜町
中山寺 妙楽寺

滋賀県

長浜市
阿弥陀寺(菅浦) 安念寺(いも観音)
安楽寺(尾山釈迦堂) 安楽寺(長浜市)
円満寺 医王寺
大音千手堂 小谷寺
菅山寺 弘善館 川並地蔵堂院
観音寺(雨森) 木之本地蔵院
黒田観音寺 源昌寺
己高閣・世代閣 向源寺(渡岸寺観音堂)
孤篷庵 赤後寺
石道寺 常楽寺(湖北町)
正妙寺 神照寺(長浜)
神照寺(西浅井) 千手院(川道観音)
全長寺 総持寺
尊住院 大円寺(高月観音堂)
大吉寺 醍醐寺
田中神社 田神山観音寺
竹蓮寺 渡岸寺観音堂
洞壽院 徳円寺
徳勝寺 西野薬師堂
腹帯観音堂 保延寺阿弥陀堂
保延寺観音堂 宝厳寺
無動寺 理覚院
良疇寺 冷水寺
善隆寺(和蔵堂)
米原市
観音寺(伊吹山) 西圓寺
青岸寺 太平観音堂
長久寺 天寧寺
徳源院 長尾護国寺(惣持寺)
蓮華寺
彦根市
圓常寺 大洞弁財天
北野寺 清涼寺
長久寺 本隆寺
龍潭寺
多賀町
高源寺
甲良町
西明寺
豊郷町
千樹寺
東近江市
安楽寺 石塔寺
石馬寺 願成寺
大覚寺 百済寺
梵釈寺
竜王町
龍王寺(雪野寺)
愛荘町
金剛輪寺
安土町
観音正寺
近江八幡市
桑實寺 長命寺
冷泉寺
日野町
金剛定寺
甲賀市
阿弥陀寺 永昌寺
岩坂の十三仏 願隆寺
玉桂寺 千光寺
飯道寺 妙音寺
檪野寺 龍福寺
野洲市
圓光寺 宗泉寺
蓮長寺(比留田観音堂)
草津市
教善寺 西方寺
常善寺 橘堂
栗東市
阿弥陀寺(栗東市) 敬恩寺
金勝寺 金胎寺
正楽寺 新善光寺
東方寺
湖南市
常楽寺(湖南三山) 善水寺
長寿寺
大津市
石山寺 岩間寺(正法寺)
浮御堂(満月寺) 圓福院(五百羅漢堂)
延暦寺 西教寺
盛安寺 微妙寺(三井寺別所)
三井寺
高島市
鵜川四十八体石仏郡 大崎寺
覚伝寺 大善寺
来迎寺

奈良県

京都府

大阪府

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